
ESSAY
コーヒーが冷たくなる前夜のカリフォルニアで
1990年代初頭のカリフォルニアでは、意外にもアイスコーヒーは一般的ではなかった。日本では当たり前だった冷たいコーヒーが、なぜアメリカでは存在しなかったのか。実体験をもとに、その文化的な違いと普及の背景をたどります。
プロローグ
それは、まだコーヒーが冷たくなる理由を持っていなかった90年代のカリフォルニアでの話だ。
存在していたはずなのに、存在していなかった飲み物。
——アイスコーヒー
少なくとも、あの頃のカリフォルニアではそうだった。
メニューにない注文
当時、住んでいたカリフォルニアのアパートの近くに、小さなカフェがあった。
テラス席がいくつか並び、午後の光がそのままテーブルに落ちてくるような店だ。
ショーケースには、生クリームたっぷりのケーキ。
いわゆるアメリカのどっしりしたバターケーキではなく、どこか日本の軽い空気をまとっていた。
経営者は日本人だった。
私は安心しきって、メニューも見ずに言ってしまった。
「アイスコーヒー!」
一瞬の間……そして、やさしい苦笑い。
「ここではね……ないんですよ……」
ない?コーヒーが?
いや、アイスコーヒーが?
どうやらこの街では、コーヒーは温かい状態でのみ存在を許されているらしい。
驚いている私を見て、親切なマスターは少し考え、こう言った。
「特別に作ってみましょうか?」
しばらくして出てきたのは、氷の入ったグラスに注がれたコーヒー。
見た目も味も、完璧なアイスコーヒーだった。
——ただし、マスターはこう付け加えた。
「ガムシロップも、ここではないんです……」
なるほど、ここには「甘くする未来」もまだ来ていないらしい。
ちなみに話を聞くと、東海岸ではアイスコーヒーがあるらしい。
ただし夏限定で……
いや、ちょっと待ってほしい。
西海岸のほうが、年間を通して暑いのに?
コーヒー消費量が世界トップクラスの国なのに?
どうやら問題は気温ではなく、概念のほうにあった。
定義がまだ更新されていない世界
その後、身近なアメリカ人に話してみた。
「日本では普通にあるんだよ、アイスコーヒー」
返ってきたのは、あの独特の一瞬の表情だった。
理解できない、ではない。否定でもない。
前例がないことへの、ほんの一瞬の空白
「コーヒーを……冷やすの?」
「それって美味しいの?」
「そういう飲み方、あるの?」
そして、決定的な一言。
「わざわざ冷やす必要ある?」
たしかに彼らにとってコーヒーは、淹れたてがいちばん美味しいものだった。
冷めたコーヒーは、ただの失敗作か、残り物だった。
つまり、 冷たいコーヒー = ちょっと悲しいコーヒー
自分が感じた違和感は、カリフォルニアの人から見ても逆向きに存在していた。
このすれ違いは、なかなか新鮮だった。
なぜアイスティーは普通なのか
ここで、もうひとつ不思議なことに気づく。
アイスティーは普通にある。
しかも、最初からちゃんと甘い。
だから、ガムシロップは必要ない。
だったら、コーヒーも冷たくしていいはずでは?
——と思うのは、日本的な発想らしい。
コーヒーは「燃料」だった
当時のカリフォルニアでは、コーヒーはとてもシンプルだった。
ダイナーで出てくる、熱くて黒いコーヒー。
家で淹れるドリップ。
オフィスに置かれたポット。
どれも共通しているのは、 温かいことが前提
そしてもうひとつ、やたら量が多いこと
もはや嗜好品というより、ほぼ燃料である。
——しかもおかわり自由という名の無限給油。
そんな中で「冷やす」という発想は、少しだけ方向が違っていたらしい。
日本ではすでに完成していた
一方、当時の日本はどうだったか?
アイスコーヒーの起源は大正〜昭和初期(1920〜30年代)とされている。
冷たい缶コーヒー。
喫茶店のアイスコーヒー。
ガムシロップという名の完璧な解決策。
冷たいコーヒーは、すでに「完成された文化」だった。
つまり私は、完成品を持ち込んで、未定義の場所に置こうとしていたわけだ。
そりゃ少しだけ、空気は止まる……
そして現在
今のアメリカはどうか?
アイスコーヒーがないほうが不自然だ。
カフェに行けば必ずあるし、夏にはホットよりアイスが主流の地域も多い。
iced coffee, cold brew, nitro cold brew……
名前まで増えているではないか……
あの頃の「ない」は、どこにも見当たらない。
転換点
流れを変えたのは、スターバックスの拡大だった。
90年代後半から冷たいコーヒーは、一気に今までとは「別のコーヒー」として再定義された。
特にフラペチーノの登場は象徴的だった。
冷たい。甘い。
ちょっとデザートっぽい。
もはや「冷めたコーヒー」ではない。
最初からそういう飲み物だった。
さらに、ダンキンドーナツ が東海岸の文化を広げ、
ボトルコーヒーがどこでも買えるようになり、
気づけば、アイスコーヒーは完全に日常になっていた。
ポイントはひとつ
重要なのはこれだ。
「拒否」ではなく「未定義」だったのだ。
誰もアイスコーヒーを嫌っていたわけではない。
ただ、選択肢として存在していなかっただけだ。
そしてある日、それは静かに「意味」を持ち始めたのだ。
エピローグ
それは決して、遅れてきた文化ではなかった。
ただ、誰もそれを「文化として見ていなかった」だけだった。
たぶん同じようなものが、今も身の回りのどこかにもある。
私たちがまだ名前をつけていないだけで……