
DISCOVERING AMERICA
なぜカリフォルニアには電柱・電線が少なく、日本の街はここまで密集して見えるでしょうか?1990年代の実体験をもとに、電線の地中化や都市設計の違いから、日米の景観のコントラストを読み解きます。
→ なぜアメリカの街には電柱も電線もないのか?日本との違いを見る
映画で見た景色の中に立っていた
1990年代のカリフォルニアで、初めてこれから住む街に立ったとき。
不思議なことに驚きはなかった。
むしろ逆だった。「ああ、ここ知ってる」と思った。
どこかで見たことがある。
記憶を辿ると、それは映画の中だった。
何度も観てきた、あの「アメリカの住宅街」。
広い道路、整った家並みと芝生、そして抜けるような空。
道路沿いにポストが並び、配達員は車から降りずに郵便を配っている。
目の前に広がっていたのは、まさにそれと同じ風景だった。
空を横切るものが、何もない
しばらく歩いていて、ようやく気づく。
この既視感の正体は、ただの建物や道路ではなかった。
もっと単純で、もっと決定的なものだった。
空を横切るものが、何もない。
電柱がない。電線もない。
視界はどこまでも抜けていく。
遮るものがないから、空と街が一枚の画面の中でつながっていた。
音まで静かに感じるのは、気のせいではなかったと思う。
余計なものがないというのは、視覚だけでなく、感覚全体も軽くした。
セットのように完成された風景
その風景は、美しいというよりも「完成されている」と感じた。
写真でどこを切り取っても破綻しない。
視界が途切れず、ノイズもない。
まるで映画のセットのようだった。
――いや、よく考えると逆である。
映画のセットが、この風景を真似ていたのだ。
そんな空間に長らく身を置いていると、それが「普通の景色」に変わる。
気がつけば、電線のない空が当たり前になっていた。
帰国した瞬間、空が崩れた
やがて、日本に戻った。
空港を出て、街に出た瞬間、その違いはほとんど暴力的だった。
空が――細切れになっていた。
電線が縦横に走り、視界を分断している。
一本一本は細いはずなのに、重なり合うことで、空がパッチワークのように切り刻まれている。
無意識のうちに、視線が引っかかる。
どこかで止まる。抜けていかない。
圧迫感、と言ってしまえば簡単だが、それだけでは足りない。
もっとこう、視界に「情報」がパンクする感覚だった。
過密な都市の断片を見ているような感覚
極端に言えば、どこか過密なアジアの都市の断片を見ているような印象すらあった。
例えば、九龍城砦の写真を初めて見たときに感じた、あの密度の高さ。
もちろん規模も意味もまったく違った。
でも「空が自由ではない」という点では、どこか通じるものがあった。
ここでようやく気づいた。
自分が、風景の「情報量」にまだ慣れていなかったのだと。
なぜこんな違いが生まれるのか
なぜこれほどまで違いが生まれるのか?
少しだけ現実的な話をする。
これは単なる美意識の問題ではない。
都市の作られ方の違いによるものが大きい。
カリフォルニアの新しい住宅地は、1960年代以降の計画開発を前提に作られていた。
最初から地下にインフラを通す設計だった。
いわば「完成形」として街が作られていたのだ。
それは、景観目的だけでなく、架空送電線からの発火による山火事の予防。
ハリケーンや地震による電柱倒壊、道路封鎖の予防も兼ねていた。
電柱がないのはあくまで結果であって、最初からそういう前提だったのだ。
一方で日本は、すでにある街の上に、何層にも重ねるようにインフラを追加してきた歴史がある。
私有地の権利関係、狭い道路、地下に密集した水道やガス管、そしてコスト。
電線を地中化するには、電柱の何倍もの費用がかかる。
しかも維持費も高い。
それでも日本の風景には理由がある
もちろん、日本でも無電柱化は進んでいる。
観光地や都心部では、空がすっきりと抜けたエリアも増えてきた。
ただ、それはほんの一部の「特別な風景」である。
多くの街では、電柱と電線が日常の一部として存在している。
ただ、ここで話を「どちらが優れているか」にしてしまうと、少しもったいない気がする。
空に何もない世界と、ぶら下がっている世界
確かに、空に電線のない世界は美しかった。
視界は広く、空間は軽く、どこまでも続いていくように感じられる。
あの「抜け」の感覚は、一度知ってしまうと忘れがたい。
けれど、日本の空には、日本の空なりのものがある。
電線の向こう側には、人の暮らしがある。
電柱の一本一本が、誰かの生活に繋がっている。
「カオス」と言えば確かにそうかもしれない。
でもそれは同時に、「生活の密度」でもある。
空に何もない風景と、空にたくさんのものがぶら下がっている風景。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、その違いに一度気づいてしまうと、もう元には戻れない。
あの日見た、何もない空。
そして、帰国して見上げた、情報に満ちた空。
同じ「空」なのに、文化が違うとこれほどまでに違って見えるのかと、少しだけ不思議に思った。
