― ロードトリップ1日目・午後|La Honda Creek Preserveの赤い納屋(1991)―

Red Barn in green hills of La Honda Creek Preserve, California — Velvia 50 slide film landscape 1991
La Honda Creek Preserve, CA, USA — May 1991 ·Velvia 50

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ROAD TRIP 1990–1992


1991年5月。ナビもスマートフォンもない時代、紙の地図だけを頼りに始まったロードトリップ。La Honda Creek Preserveまでの、1日目午後の記録。ウッドサイド(Woodside)の森のフィトンチッド、突然現れた赤い納屋、そしてその赤色の理由、音のない静かなアメリカなどを紹介します。

森が歓迎してくれた

ウッドサイド(Woodside)のフォア・コーナーズ(Four Corners)を通過してからは、アクセルを踏み込んでいた足の力を抜いた。
ここからは下り坂だ。
車は吸い込まれるように、鬱蒼とした針葉樹の森へ滑り込んでいく。

窓を全開にした。
それまでの乾燥したカリフォルニアの風から、一気に空気が変わった。
冷涼で、どこか湿り気を含んだ、驚くほど濃密な緑の香り。
思わず、肺の底に溜まっていたウッドサイドの空気をすべて吐き出した。
そして、深呼吸を一つ。

「あぁ、空気が美味い……」

ありきたりの感想だけど、本当にそうなのだから仕方がない。

この爽やかな、胸の奥がすっとするような香りの正体は「フィトンチッド(Phytoncide)」。
植物が「自分の身は自分が守る!」と放つ、天然の殺菌成分だ。
でも、人間にとっては、ただのご褒美でしかない。
特に針葉樹の森が放つそれは、日頃のストレスでガチガチになった脳みそを優しく揉みほぐしてくれる。

シリコンバレーからほんの少し走っただけで、こんな大自然のスパにチェックインできる。
だから、ロードトリップはやめられない。
心地よい緑のトンネルを、エンジンブレーキの静かな唸りと共に、ゆっくりと下っていった。

Frame captured from original VTR footage filmed in May 1991. The image has been preserved as close as possible to its original recorded condition.
Captured from original footage recorded during a 1991 American road trip

突如現れた、絵本の中の「赤い納屋

長く続いた深い森のカーテンが、いきなり左右に開けた。
その瞬間、目の前が鮮やかな丘陵地帯に変わった。

カリフォルニアの太陽に照らされた新緑の草原。
その広大な風景の右手に、彼女はぽつんと佇んでいた。

鮮烈な、赤い納屋。

「うわ、映画のセット?」

思わず独り言が漏れる。
それくらい、あまりにも出来すぎた、完璧な「アメリカの農場」の風景がそこにあった。

ここはLa Honda Creek Open Space Preserve(ラ・ホンダ・クリーク保護区)。
今でも、現役で放牧が行われている、広大な自然保護区である。
その農業景観の象徴として保存されているのが、「レッド・バーン(Red Barn)」だ。

後で知ったが、1900年前後にウィークス(Weeks)家という一族によって建てられたらしい。
120年以上も前である。日本でいえば明治時代。
その頃から、ここに建っているのだ。

カリフォルニア ルート84(California Route 84)を走るドライバーたちにとって、赤い納屋は単なる「古い建物」ではない。
ラホンダエリア(La Honda)の、確固たるランドマークである。
地元の人にとっては、わざわざチケットを買って行く観光地ではない。
「これが見えたら、帰ってきたな」とか「あそこを過ぎたら、あの街だな」とか‥‥‥
誰もが知っている、心の拠り所のような風景なのだ。

ちなみにこの納屋、現在は野生動物保護の拠点でもある。
希少なコウモリたちの、繁殖場所になっているらしい。
バットケイブ(バットマンの秘密基地)ならぬ、リアル「コウモリの家」。
守られているのは夜の街の平和ではなく、生態系の平和だった。

なぜ、この「赤」に惹かれるのか

車を停め、しばらくその納屋を眺めていると、不思議な感覚に襲われた。
「初めて来たはずなのに、どこかで確実に見たことがある」
妙に、懐かしいのだ。

映画のワンシーンか、それとも幼い頃に読んだ絵本の一ページか?
あるいは古いジーンズのCMか。
遠い記憶の底に、「これがアメリカの原風景」として、強烈に刷り込まれていた。

そもそも、なぜアメリカの納屋はこんなにも赤いのだろう?
当時、生木で作られた納屋を長持ちさせるため、亜麻仁油と牛乳と消石灰と錆を混ぜた塗料で、納屋を守ったらしい。
そんな台所仕事みたいな方法で、120年後も続く赤を残したのだから面白い。

これが時を経て、文化になった。
日本人が赤い鳥居を見ると、理屈抜きで「神社だ、神聖な場所だ」と連想する。
同じように、アメリカ人はこの赤い納屋を見ると、古き良き開拓時代のスピリットを連想する。
大いなる田舎への郷愁(ノスタルジー)を呼び覚まされるはずだ。

その赤い納屋の35年前の写真に写る姿と、現在のGoogle Street Viewで見る姿。
驚くべきことに、何一つ変わっていない。
まるで昨日ペンキを塗り直したばかりのように、鮮やかで綺麗に手入れされている。

周囲のシリコンバレー一帯は、この30年余りで世界の中心へと激変を遂げた。
今では、天文学的な富が動き、ガラス張りの最新オフィスが建ち並ぶ。
AIやテクノロジーは、世界を塗り替えていった。
しかし、赤い納屋だけは、時間が完全に凍結されていた。
変わらずに、ただそこに建ち続けていた。

Frame captured from original VTR footage filmed in May 1991. The image has been preserved as close as possible to its original recorded condition.
Captured from original footage recorded during a 1991 American road trip

誰もいない、音が消えたアメリカ

しかし、何かがおかしい‥‥‥
ここは牧場の納屋のはずだ。
なのに、牛が一頭もいない。
馬もいない。
それどころか、農機具の一つも転がっていない。
錆びついたトラクターすら見当たらない。

あるのは、風になびく丘陵の草原。
遠くに連なる緑の森。
吸い込まれそうな群青色の空。
視界のどこを探しても、周りに人工物は見当たらない。
あるのは、ただ草原と赤い建物だけ。
ザワザワと草が擦れ合う音と、遠くで鳴く鳥の声。
それ以外は、すべての音が消えてしまったかのような静寂だった。

周囲を見渡していると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。
「あれ、自分は今、本当に1991年にいるのだろうか?」
ここは19世紀の牧場なんじゃないか?
カウボーイハットを被った開拓民が「よう、旅人!」と声をかけてくるんじゃないか。
そんな錯覚に陥る。

最先端のテクノロジーが生まれるの都から、ほんの数マイルしか離れていない場所なのに‥‥‥
景色だけを見れば、そこは完全に西部開拓時代のアメリカだった。
そして今でも、ルート84を走る誰かに向かって、彼女は静かにこう語りかけている気がする。

「ようこそ、アメリカへ」

たぶん、ここから始まった

しばらく、乾いた風に吹かれてみた。
そして、その赤い納屋をじっと眺めていた。
やがて、胸の奥から湧き上がってくる確かな手応えを感じた。
そして、心の中で小さく呟いた。

「あぁ、自分は今、本当にアメリカに来ているんだなぁ」

飛行機が着陸した空港のイミグレーションでもなく、
派手なネオンが輝くハリウッドでもなく、
ゴールデンゲートブリッジがそびえるサンフランシスコでもない。
観光名所でも何でもない、誰もいないこの景色を目の前にしている。

その時、自分の中の旅の歯車が、カチリと噛み合った音がした。
たぶん、泥臭くて愛おしいロードトリップは、この赤い納屋から本格的に始まったのだと思う。

さあ、エンジンをかけよう。
次は、どんなアメリカが待っているだろうか。

旅は続く

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